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16年間ありがとう

うちのテレビ事情は相当悲惨だ、とわかったのは、久しぶりに我が家に来た夫の父が、脈絡も無く笑い出したのがきっかけだった。
「これは‥」
当初は意味がわからなかったのだが。
「これを毎日見てるの?へえー!」
父は決して人やその境遇をさげすんだり、バカにするような人ではない。
しかし思わず声を出さずにいられない、そんな状態であったことに、私はまるで気づいていなかったのだ。

うちのテレビは91年に買った。
私が大学に入りひとり暮らしを始める際、大学生協を通じて買った。NECの15インチのブラウン管テレビ。
確か29,800円だったと思う。
本体後部についている端子は画像ひとつに音声ひとつ、つまりモノラル。
就職して神奈川県に引っ越しても、その後結婚しても、このテレビは私とともにあった。
壊れないのだ。
なんて丈夫な製品なんだろうと思いながら見てきた。

しかし。
今年初めに、息子の幼稚園でロケがあったという、ある番組が放映された。
それを録画したビデオを見ての感想。
「すごく広~い幼稚園に見えるね」
もともと幼稚園にしては広い園庭だと思っていたが、画面で見るととびきり広く見える。
同じ園に通わせてる別のお母さんに
「あの番組見ました?すごーく広く見えましたよね」
などと言った。
が、そう見えたのはどうも私だけだったらしい。

夫父「ほらこの画面、横幅が広いでしょ」
ん?
そう言われてみればこのテレビ、ブラウン管の大きさを全然活用していないのだ。
ブラウン管の上と下に黒い帯のように、何も映っていない部分があり、その間に挟まれるように、画面の中段しか映像が映し出されていない。
15インチでも相当小さいというのに。
映像が横に長いのだ。そういえば。
夫父「顔が横に伸びてるよ~」
ん?
‥そうか?
ほんとにピンとこなかった。
父が言うには、出てくる字幕も、人の顔も、すべて縦横の比率がおかしく、横に長く引き伸ばされているらしい。
んん~そうかなあ?と思いつつ見るとそのような気もするが、いやでも今まで全然違和感ありませんでしたよ?!
夫父「そうなの~(苦笑)」
ほんとなのだ。
顔が横に長いと言われるが、これでもやれこの女優さん太ったねとか痩せたねとか、この画面で見てちゃんと分かっていたのだよ。
全  然  違  和  感  な  い  。

こらえきれずそれからも時折吹きだしてしまう父と、遠慮してか何も言わなかった母が帰り、夜になって夫が帰ってきた。
ということだが、そう思う?
いや、と夫。
でもそう言われてみるとこの画面、広さを全然活用してないよね。
うむ。
16年このテレビと行動をともにした私だけでなく、結婚して実家のテレビ(正常)と訣別してきた夫でさえも、映像が横にのびているという認識は無かったらしい。
初めからこんなだったわけじゃないと思うのだが、じゃあいつからなんだろうか。
ひょっとすると私どもはふたりそろって、横幅が縮んで見える特殊な目を持っている、奇特な夫婦なのだろうか?
いやそうではなく、
このテレビを見るときは、知らず知らずのうちに、狂っている縦横比を修正して認識していたのだ!
という事実に気づいた。ほう。
人間の目ってすごいな。
と感心しても誰も褒めてはくれないし、だいたいそれほどの価値もない。
ただ改めてこのテレビについて考えると、リモコンは本体のセンサー部分かなんかが壊れてとっくに使用できず、ゆえに本体のチャンネルボタンを操作してチャンネルを変えていたがそのボタンも押しすぎて壊れ、チャンネルが変わらん!と言いつつも接続したDVDの電源を入れてDVDデッキのチャンネルを変えればまだ大丈夫、しかし今度はテレビ本体の電源ボタンが壊れ、コンセントを抜き差ししなければテレビの電源を切ることも不可能に、とだんだん切羽詰まってきたが、それでも大して問題視していなかった自分が浮き彫りになってきた。

その後私の両親が田舎からやってきて、当然このテレビを見たわけだが。
私の両親、とくに父はもうガマンができなくなったらしく、ドライバーを持ち出して本体カバーを開け、
私父「どこかで調整できるはず」
と2日にわたり修理を試みたが、画面の縦横比を調整できる箇所はなかったらしく、その上部品各所がもう劣化して折れたりしてるのが分かった。
それでもまあいいよ。私たちはもう慣れてるんだからさ。と当分見続けるつもりだったのだが、ほどなく音声が急に聞こえなくなったり、わずかな振動で元に戻ったり。
端子の接触だろう。
音声端子を強く差し込むと元通り聞こえるが、手を離すと無音になってしまうように。
満身創痍。買い替え時がやってきたようだ。
16年間どうもありがとう。

電器量販店のテレビ売り場には、クラクラするような大画面のテレビが幅をきかせていた。
うちのかような経緯も知らずお店の人は、32型なんかを平気で勧めてくる。
そんな大きなテレビでポ○モンとかバ○ルを見たら(一応伏字)、私は救急車で運ばれてしまうんじゃないか。
という恐怖もあり、液晶AQUOSの20型にした。私にとってはこれでも迫力の大画面だ!

※ご報告。4月に三男を無事出産しました。母子ともに元気です。
# by akasatana-xyz | 2007-05-20 05:06 | なんてことない近況

バブル期、私は10代だった

映画「バブルへGo!~タイムマシンはドラム式~」が公開され、関連でバブル期についてのテレビ番組も放送されていた。
この映画の公式サイト内の「bubble History」という年表は、1987年1月の日産「Be-1」発売に始まり、1991年9月「SMAP」CDデビューで終わっていて、なかなか興味深い。
1972年生まれの自分にとっては、この期間は14歳から19歳までにあたり、まだ親のすねっかじりで、番組で取り上げられているような豪奢な生活とは縁遠い、日本の西の果てのダサダサな生徒だった。
そういう意味ではバブルの恩恵など受けておらず、
「バブル期ってそんなだったのかー!!」
と怒りさえ覚えるが、当時とっくに物心ついて多感な時期を送っていた以上、
「しかし、心あたりもなくはない」
と思うこともあり。
一方で、
「そこまで皆浮かれてはいなかったぞ」
とつっこみたくもあり。
この「bubble History」を見ているうちに、これに並行して個人的な思い出を書いてみたくなった。(以下、太字部分は同年表より引用)

1987年10月 「ねるとん紅鯨団」放映開始
      11月 映画「私をスキーに連れてって」公開

当時中学3年生。
かつてファンだった原田知世が「私をスキーに‥」のような映画に出たと知って「チャラチャラした映画に出おって」などと思ったような気がする。
そのくせ「ねるとん」は、高校生の頃よく見ていたけどな。

1988年 2月 「ドラゴンクエストⅢ」(ファミコン用)発売
       3月 光GENJI「パラダイス銀河」発売
       9月 昭和天皇吐血

受験を経て高校生に。
「ドラクエⅢ」は県立高校入試直前の発売で、弟が買ってきたのを入試前日もやるほどはまっていた。
中学の友達に書いてもらったサイン帳には、好きなタレントに光GENJIや少年隊を挙げている子が多かった時代である。
当時は音楽ソフトがレコードからCDに切り替わった頃で、私もこの頃念願のCDラジカセを手に入れた。
一方昭和天皇の容態が悪くなり、バブルとは逆行して自粛ムードだったのも事実である。
当時応援していた中日ドラゴンズがセ・リーグで優勝したものの、ビールかけが中止になったのを覚えている。
天皇が亡くなったらいったい日常生活どうなるんだろう、となんとなくオロオロした気持ちもあった。
昭和64年の年賀状を出しても大丈夫だろうかという心配をしたな。

1989年 1月 昭和天皇崩御、「昭和」が終わり「平成」に
       2月 「イカすバンド天国」(通称「イカ天」)放映開始
       9月 「横浜ベイブリッジ」開通

高校1~2年生。
朝、弟に「ねえちゃん天皇亡くなったばい」と起こされたのが、私の昭和の終わりの第一報だった。
なぜか「嘘やろ」と答えたのを覚えている。
テレビからCMが消え、「激動の昭和」みたいな番組がやたら多く、しかしけっこうそんな非日常の画面を見ていた。
新元号が発表されるときもテレビにかじりついていた。
のちに総理になった小渕官房長官が、毛筆で書かれた
「平成」
という額を掲げ、その直後に富士山と桜の映像をバックにCGで
「平成」
という字がデカデカと画面に出てきて、なんか予想通りの大げさな演出で笑ってしまった。
テレビのインタビューでは、「平成」って平安時代みたいな感じだという意見が多かったように記憶している。
元号が変わって、ひっかかっていたとげが抜けたかのように、メディアも明るさを取り戻し、バブルの頂点へ向かっていったのではないか。
「イカ天」は長崎ではたぶん数週間遅れだったと思うが、放送終了間際に数回見た覚えがある。
私が今なお好きなビギンもこの番組出身だが、当時は見ていない。イカ天出身で当時聴いてたのは弟が持っていたジッタリン・ジンくらい。
上京どころか佐世保から出たこともほとんどなかったが、横浜ベイブリッジをはじめ東京都庁など、バブル期建造のスポットの情報はメディアを通じて西国の高校生にも伝わり、あと1~2年で親元を出て行くはずの身にとっては都会の象徴として焼き付けられたものだ。

1990年 4月 「Hanako」4/12号でティラミスが紹介され、全国的ブームに
1990年11月 スーパーファミコン発売
1990年12月 松任谷由実アルバム「天国のドア」発売1週間で165万枚を出荷

いちおう3つ抜粋してみたのだが、この年表のこの年の出来事についてはあまり印象がない。
高校3年だったし、世の流行ものとはやはり距離を置いていたのかな。
成績がズルズル下がり続け、2年生の時点では「このまま行けば大丈夫」と言われていた第一志望の大学が危うくなり、それでも今さら他に行きたい大学もなく、父親には「景気よかけんお前も今のうちに就職しろ」と言われたりして、1年後の自分はどうしているんだろうと頭を抱えたくなる毎日だった。
バブルとは縁遠い地方都市の高校生ではあったが、進路選択の年齢だとさすがに景気について考える。
1992年に佐世保市に大型リゾート「ハウステンボス」のオープンが決まり、近くの高校では同じ学年の生徒400人のうち、80人がそこに就職内定したと聞いた。
ほかにも同い年の就職希望の子は地元企業のほか、大阪や名古屋、福岡に行く子が多く、詳しい数字はわからないが確かに就職率は高かったのだろう。
そんな中印象的だった曲は、チューブの「あー夏休み」で、夏に湘南で繰り広げられる男女の恋愛を歌っているというのに、自分にとっては、
「あー夏休み終わったー、私はなにしてたんだぁぁぁぁぁ!」
と深い後悔に陥りたくなる、そんな1曲だった。
一方8月にイラクがクウェートに侵攻し、アメリカがどう出るのかという世界情勢だった。
私の高校には学習合宿といって、夏休みに1週間皆でホテルに缶詰になり、テレビも新聞もなしでひたすら自習をする(させられる)という行事があったのだが、そこから解放されたその日にそのニュースを聞き、何かが動きつつあるのだと思った。

1991年 1月 1/17 湾岸戦争突入
1991年 1月 ドラマ「東京ラブストーリー」放映開始
1991年 4月 「ジュリアナ東京」オープン
1991年 4月 ドラマ「101回目のプロポーズ」放映開始

やはり戦争になったが、それとはあまり関係なく、私は受験真っ只中だった。
共通1次から大学入試センター試験に変わって、私たちで2回目。
私は受けた大学は3大学だったが、バブル当時の受験生には「記念受験」というのが流行っていた。
自分のレベルより格上でも「○○大受けた」というだけで箔がつくのか、とにかく景気のよかった当時は、親も受験料やそれに伴う宿泊費など出し惜しみしなかったので、そういう言葉も生まれたんだろう。
現在は少子化・大学全入時代で、学内併願だと大学側が受験料割引なども行っているという。隔世の感だ。
私はもう落ちる覚悟で第1志望の大学に出願し、1~2月は必死で2次の勉強をしていたので、テレビもろくに見てなかったのだが、同じ受験生の友人は毎週「東京ラブストーリー」を楽しみにしていたのを覚えている。
運よく入試をパスし、私は家を出、他の地方都市で新生活を始めることとなった。
入学直後に、この春に同じ大学を卒業して就職した先輩(私と入れ違い)と話す機会があり、
「うちの大学って、就職どうなんですか」
と聞くと、
「あー心配ないよー、大学名言えばいろんなとこ内定くれたよ」
と言っていた。
ほかにも大学4年の12月に就職活動始めて(!)人気IT企業に就職したという先輩もいたし、田舎者の私でも知っている有名企業の名がすらすら出てきた。
「内定拘束」という言葉も、そのころ初めて知った。

が、おそらくその先輩の代が、最後のバブル期入社組だったのだろう。
私が就職活動する1994年頃には就職氷河期と言われていて、男子のところには電話帳みたいな分厚い会社研究の冊子が、十数冊も無料で送られてきたり、セミナーの案内も届いたりするのだが、私には来ない。
友人宅へわざわざ貰いに行き、興味のある会社にはがきを出したり電話したり、しかし大半はなしのつぶてだった。
当時としては珍しい、大量採用していた会社に運よく拾われ、そのまま就職したものの、その会社もバブル期の拡大方針がやがて仇となり、他の要因も加わって経営が傾いてしまった。
「昔はいい会社だったんだけどねえ」
上司や先輩からしばしば聞かれたこの言葉が、「昔」を知らない私にとっては、そのままバブル期を振り返っているかのように聞こえた。
# by akasatana-xyz | 2007-03-04 04:49 | 思い出した

産む機械が思うこと

厚生労働相の「産む機械・装置」発言が物議を醸しているのだが、女である自分はそれほど腹が立ってないのだ。
最初ニュースのインデックスを見たとき、
「女なんてしょせん産む機械でしかないんだよガッハッハ」
などと乱暴な物言いをしたのかと思ったが、自分がニュースの詳細を見た限りでは、さような野蛮な感じは受けなかった。
本人もその時「こう言ってごめんなさいね」とか言ってたらしいし、少子化問題を数字上で語ろうとしていらぬ比喩を使ってしまったということかと。
別に彼を擁護するつもりはないが、このままだと木を見て森を見ないまま終わりそうな気がしてな。
というのはかようなポストに就く人間というのは当然、相当の見識があるご立派な人物に違いなかろう、と私が思っているからであって、彼がもしも腹の底で
「女はみんな子供産め~」
などと無茶苦茶なことを思っているとしたら話は別だけど。
それにしても「(女性は)産む機械、装置」と言う喩え‥。
男でも女でも
「おまえは人糞製造機だ」
って言われたらいやだろ。

あまり腹立たしさを感じなかったのは、今自分の腹に子を宿しているからかもしれぬ。
幸いなことに、私にとって妊娠はおもしろい。
体内で自分とは別の生命が息づき、成長し、そのために自分の体が変化し、出産に至るというメカニズムがおもしろい。
メカニズムって。あー私が今産む機械だ。
と楽しめるのは、経過が順調であり、初めての妊娠ではないので不安が少なく、かつたぶんこれが最後の妊娠なので非日常を楽しまにゃそんそん、と思っているからだろう。

さてこの発言を聞いて最も強く思ったのは、
「私はなんで、子供がほしい、産もうと思ったのだろう」
ということだ。
厚生労働相がもっと露骨に
「女は産む機械なんだからもっと産んで少子化問題を解決しろ」
と言ったらそりゃー、ムカムカするだろうかと。
以前職場で出産のため退職する人に、上司が送別会のあいさつで
「○○さんは少子化問題解決に貢献され、我々の年金も安泰です」
みたいなことを冗談めかして言ったことがあり、好感の持てる上司だっただけにその発言に失望した。
少子化阻止のために私たち(女だけでなく男も含む)は子供が欲しいんじゃない。
まして年金体系維持のために私たち子供を育てましょうね、なんて男女はいないぞ。
じゃあどうして子供が欲しいんだろうか、と考え直したとき、なかなかすぐには答えられないことが今回わかった。
学校を卒業していつかよき伴侶を見つけて結婚したら子供が欲しい、というのが自分の中に漠然としてあり、たまたまよどみなくその流れに乗って今に至っているような。
しかし、私はこういう人生を送りたいという理想は人それぞれ違い、結婚したくないが子供は欲しい人、結婚はしたいが子供はいらない人、結婚もしたくないし子供もいらないという人もいる。
私の友人(男)でも
「子供がいても今の日本のままじゃ苦労させるだけだからいらん」
という人もいる。
価値観は人それぞれで、どれが正しいとか間違いだとかいうこととは別次元だ。
しかし私が子を持つという選択をしたのは、やっぱり明日は今日よりいい日になるに違いないと、根拠のない希望を持っているからなんだろうな。
もしくは、希望を持ち続けたいという希望。
私のような楽観的な性格の人だけでなく、世の中全体でそんな希望が実感できないことには、次世代の人間を産み育てようなどという雰囲気にはなるまい。

ついでにと言っちゃ何だが、自分が今の時点で懸念していることを書いておこう。
既に議論されていることではあるが、個人的に「もうひとり産むにはここが大変だ」と思うポイントなので。

○下の子を出産する前後、上の子に満足なサポートをしてくれる仕組みが欲しい
どうも厚生労働相は、今子供のある人にもう1人2人と産んでもらいたいと思っているようだが、この切実かつ避けて通れない問題をクリアできないことには到底無理だ。
出産のとき、上の子どうすんの?
うちは幸い夫も私も両親が健在で、頼ることができるが、頼る人がいなくて2人目3人目を諦める人も多いと思う。
本来は夫と私ふたりの子供なので、私が入院している間だけでも夫が育児休暇を取って上の子を見るべきだと思うが、まだまだ育児休暇を取れるような雰囲気ではないらしい。
親が死んだら葬式出すのに仕事休んでも悪く言う人はいないと思うのに、子供が生まれるときに休むのはなぜだめなのだろう。
育児休暇がとれても無給のところが多いのも困る。
また仕事の都合でどうしても夫が休めないときや自営業の場合、信頼できるベビーシッターや家事代行を良心的な費用で派遣するシステムも構築してほしい。
贅沢だができれば産後1ヶ月は、母親は新生児の世話以外は静養に専念できるようにしてほしい。
知り合いでまだ子供が欲しいが、3人目の出産後無理をして体調を崩してしまい、もうこれで諦めるという人がいる。
夫婦それぞれの実家も遠くてサポートが期待できないのに、夫婦ふたりで3人育て、できればまだ子供が欲しいという人がいることに感心した。
私など2人でもヒーコラ言っているのにな。

○安心して通わせられる公立校にしてほしい
子供がいると金がかかるというが、どこの家も最も不安なのは教育費であろう。
うちの子たちはもう公立校しか行かせてやれないんじゃないかと思うのだが、地元の小中高でその子に応じた教育を十分に受けられるよう願っている。
まだ未就学児なので今の学校の実態はわからず漠然とした書き方だが、公立が良くないから私立ではなく、公立も私立もいいからどちらにしようかな、と選択肢がある状態が、誰にとってもいいだろう。
余談だが文部科学省の官僚の子弟は、当然公立の学校に行かせているんだよね?

これらが改善されれば、あの失言もかなり挽回できるかと思うんですが。
# by akasatana-xyz | 2007-02-04 06:18 | まじめに

どっちが普通なんだ

子らが寝静まった夜の会話である。

私「お茶でもいれようか」
夫「麦茶でいいよ」
私「寒いからほうじ茶は」
夫「そう」
私「いいよ、おかあさんも飲むから」

夫「‥‥‥」

私「あ、ごめん」
夫「おかあさん?」
私「私も飲むから」
夫「‥‥‥」
私「間違えた」
夫「‥‥‥」
私「よくあるよね」
夫「ない。」
私「子供の頃さー、先生に向かって『おかあさん』って呼んでしまったことない?」
夫「ないよ」
私「あるよ普通誰でも」
夫「ないよー」
私「あー、男の先生ばっかりだったんだ」
夫「そうでもないよ、低学年だったら女の先生が多いでしょ」
私「そうだよね」
夫「そんなこと言うの、まだ低学年の頃でしょ」
私「私は、6年生の時だった。」
夫「ええー」
私「誰でも言ってるよ、忘れてるだけで」

どうなんでしょう。
# by akasatana-xyz | 2007-01-26 02:47 | こんな経験

故郷での気になる芝居

この記事見て、なんかこう、もどかしくて堪らん。

来月「春の鯨」公演 清峰高の野球モチーフ

長崎新聞WEB NEWSはほぼ毎日といっていいほど見ている。
離れて暮らす親の近くで事件でも起こってたらおおごとだ、という気持ちがあるし、また故郷を離れて10余年が経つというのに、未だに自分の魂は故郷をさまよっているような気もする。
おそらくもう、一生住むことはないと思うが。

さてこの記事、佐世保のホールが主催する演劇の自主公演らしい。
演劇。
私は学生時代演劇をやっていたのだが、いっしょに部活をやってた懐かしい人が記事中に名前を連ねている。
以前地元の結婚式で、思いがけなく当時の顧問の先生に会い、今もやっているという噂は聞いていた。
ああ、いいなあ!
よく続けてるなあ!
しかも地元で。
私にとって演劇は、好きだけど楽しいけれど、大変で恐ろしいものでもあった。
公演までの数ヶ月間、ほぼ毎日数時間を練習で費やす上、練習が終わっても脚本を読みこみ、セリフや登場人物について考え、その上装置や衣装や音響などのこともあり、体力も気力も総動員する覚悟がないとできない。
しかも役をもらって練習すると、役を演じているはずなのに自分の内面、とくに短所とか経験の無さとかがさらけ出されるようなことがままあり、
「なんなんだ!」
と頭を抱え落ち込むようなことが多い。
社会人になってから1回だけ、とあるワークショップに参加したことがあったが、仕事とはとても両立できないと思った。
何かを究めようとするなら何だってそうで、それを乗り越えられないのは私が悪いのだろう。
しかしというかだからというか、ずっと好きなことを継続している彼女が羨ましく、また素直にすごいことだと思う。
自分など18まで世話になったいなかには何の貢献もしてないという負い目があるので、知っている人が頑張っていると聞くと、自分のかわりにやってもらっているような、都合のいい気分になる。

しかもこの公演、昨春の清峰野球部の快進撃がモチーフとな。
過去の記事(これこれこれこれこれなど)でも書かずにいられなかったように、彼らの活躍については大いに心動かされたひとりなのであるが、他にも多くの人がそれぞれの立場で彼らを見つめ、こんな演劇まで出来てしまったということに、嬉しくてたまらない。
当時の自分の只ならぬ気持ちを共感しあえる相手が、またひとり見つかったような。
昨年の夏、清峰が甲子園を去ってからも、私は勝手にもやもやしていた。
ハンカチ王子を見ても高校生ドラフトを見ても、清峰のことが脳裏をかすめ、清峰から郵送されてきた手ぬぐい(夏の甲子園出場が決まっていてもたってもいられず、少額ながらこっそり募金した御礼)を見ては悔しく、
「あーもっとー、活躍を見ていたかった」
という、勝手な思いにかられていた。
ほんとに勝手よ。何じゃそりゃ!
なんかこのもやもやが、この芝居を見ると成仏できるような、そんな気がしてな。

出来れば土日使ってとんぼ返りでもいいから見に行きたいのだが、諸事情あって川崎から動けないのがほんとに残念だ。
遠い空から、この公演の成功を勝手に祈っています。
# by akasatana-xyz | 2007-01-22 03:49 | なんてことない近況